最近、映画「タローマン」を観ました。
それがきっかけで、わが家ではちょっとした岡本太郎/タローマンブームが起きています。
そこでこの週末、万博記念公園に太陽の塔を見に行きました。
70年万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったそうですが、中央のメインストリートにそびえ立つ太陽の塔は、岡本太郎が狙ったように、そのテーマとはまったく異質です。
そんな異質な太陽の塔が、万博の象徴となり、ほとんどのパビリオンが解体されたあともそこに残り、また人々にとって万博のもっとも強烈な印象として生きつづけているという事実は、個人的には素晴らしいことだと思います。
きれいなものよりも、得体の知れないべらぼうなもののほうが、人の記憶には強く残るのです。
塔を真下から見上げて、その存在感と質量に圧倒されました。
とくに、「現在」の顔のねじれた鼻や口の凹凸は、無機物であるにもかかわらず非常に人間的な雰囲気を醸し出していて、「調和」という言葉からはほど遠く見えました。
それと対照的に感じたのが、ホステスの制服の展示でした。
旧鉄鋼館に、当時の各国のホステスの制服が並んでいます。
それらは昭和の時代に「未来的」と想像されたであろうデザインで、いずれも画一的で無機的できれいなものでした。
それらは当時の人びとが想像した未来の「調和」の表現だったのでしょう。
しかし、現代、そんな服を着て街を歩く人はいません。
見るとしたら、由緒正しい百貨店の店員の制服としてです。
映画「タローマン」では、1970年の人たちが想像した(という体裁の)「2025年の未来」が描かれます。
そこでは人々は常識や秩序を重んじ、みな同じような服を着ています。
常識になじめない人たちは見下され排斥されます。
この架空の2025年は、いま実際に2025年を生きている私たちの目から見ると、ばかばかしく感じられるかもしれません。
でも、考えてみてください。
私たちが「未来」と聞いて最初に抱くイメージには、どこか整然とした調和や秩序が含まれていないでしょうか。
少なくとも私がパッと想像する未来像は、なんだかきれいなものです。
そう考えると、映画の中の未来人たちを単純に笑い飛ばすことはできないのかもしれません。
未来を多様で有機的で複雑なものとして想像することは困難です。
でも、たぶん未来は多様で有機的で複雑なものになると思います。
万博で人びとの記憶に残ったのは、調和とはかけ離れた太陽の塔でした。
きれいな調和のとれたものよりも、べらぼうなもののほうが心に刻まれる。
社会は表面的には調和を目指して動いていくのかもしれませんが、時代が下るにつれて人々のありかたにはでたらめな側面が強まっているように思います。
理性的に想像されるのは調和のとれたものでも、求められているのは想像を超えたものなのです。
未来を描くとき、その未来図があまりに整然としていると、人々の心を掴めないのではないでしょうか。
今年の21世紀の万博を、私も楽しみました。
それは、多様性に触れられる機会として、そうそうない貴重な場だったと思います。
しかし「並ばない万博」というコンセプトはうまく機能していません。
もっとべらぼうな、でたらめなものが求められていたのではないか――太陽の塔を見上げながら、そんなことを考えました。